憂鬱漂流記

出版社に勤める社会人です。憂鬱な私の記録をここに記します。

忙殺される自己

皆さん

久しぶりです。

1か月ぐらい、更新できませんでした。

あれだけ、毎週更新しようとお話ししていたのに、

さっそく約束を破ることとなりました(笑)

 

言い訳がましいのですが、仕事が忙しすぎるためです。

新年度が始まり、3月のタイミングで退職、移動する人が増え、

忙殺されていました。

 

こんなこと言いたくはないのですが、

奴隷のように働く毎日。嫌気がさし、

平日は会社から帰ると、夕食(もはや夜食に近い)を食べ、寝、

休日はボーっと家で過ごし、たまに友人と呑み、

そんな毎日をここ一ヵ月過ごしていました。

 

最初は少し憧れを抱いていた出版社ですが、

そんなことはもはや微塵も思っておらず、

ここで働き続けるのは自分を苦しめるだけではないかと思い始めました。

それもこれも、私の中には根底で働きたくないという気持ちがそもそもあったからです。

この社会で生きていくためには、これは甘い考えなのは百も承知で、

この考えをそのまま表明するのは社会の外に追い出されることを意味します。

もちろん私はこの考えが根底にありつつも、

この考えにできるだけ近い労働を希望し、今の職場を選んだつもりです。

しかし、働いてみなければ分からないことなど往々にしてあるもので、

現実と理想のギャップを埋めることはできませんでした。

 

私はここがブラック企業だとか、そんなことは考えていません。

ただ仕事をするうちに、人間があたかも労働を最高の価値と認めている、

という事実(それが意にそわない形であってさえも)が納得がいかず、

この事実を受け入れることができないのです。

誰しもが仕事を生きがいにできるわけではありません。

月曜のあの東京の満員電車では、異様な空気が漂っている。

しかも若い人から、年老いた人まで。

今の日本は確かに給料が低く、週5日で基本働き、2日休む、

これが今の日本社会では普通です。

休みが充足しているかしていないか、これは人それぞれものさしが違います。

ただ私は休日が足りていない人に対して、考えが甘い、みんな頑張っているのだから、

ということがおかしいと思うだけです。

生きていること=労働することになる図式がおかしいのです。

自分が何のために生きているか、なんて考える必要はないけれど(筆者は学生時代、もしかしたら、今もかもしれないが、悶々と考えていた、る)、自分が何をして生きていくかの選択は、

考えるべきだし、その選択と社会の寛容さは必要だと思います。

 

久々に、1000文字で書いてしまいました(笑)

これも私が自己を仕事で忙殺している状況で、忙殺されんがための自己の必死の抵抗なのかもしれない。

同じように、悩んでいる方いたらコメント欄に意見お願いします。

それでは