孤独とは
こんにちは
瞬です。
一昨日、昨日と友人と呑んでいました。
一昨日は大学の友人。
昨日は故郷の友人とその彼女。
こうした呑み会の時は、必ずといっていいほど、
仕事の悩みや周りのうわさなどの話をします。
これらの話は、ふざけや、時には真剣に、
されるけれども、
久々に会った私の友人はキラキラと輝いていました。
私と彼らとの違いはなんなのでしょうか。
私はあのキラキラと輝く彼らをみて、半ば嫉妬し、
孤独を感じてしまいます。
私だけ、取り残されているような、、、
アーレントによると、
私が私自身と一緒にいることを「孤独(ソリチュード)」と呼び、私が私自身と一緒にいられないがために、他人をもとめてしまうことを「寂しさ」(ロンリネス)とよんでいます。
すなわち、孤独とは、寂しさを感じるということはないのですね。
それでは私が今、感じているこの「孤独、寂しさ」(仮に)はなんなのでしょうか。
孤独とも違う。
他人を求める寂しさとも違う。
おそらく、無(Nichits)な気がしっくりします。
何もない、状態。
かの著名なニーチェが描いた『ツァラトゥストラはかく語りき』
(私の人生で決定的な影響を与えた書)でもツァラトゥストラは、弟子と友人に別れを告げ、一人、孤独の道を突き進みました。
このブログを書いている時も、私のブログのタイトルのように漂流、
すなわち無の状態における漂流を感じている気がします。
思考停止ではないけれども、流れに身を任せている、
そんな感じです。
だから、孤独や寂しさと思っていた、友人との比較は
案外そんなものではなく、漂流への私自身の反抗だったのかもしれません。
そしてこんな私でさえも、(普通の人であったとしても)
大きな流れに逆行しようとするのは、(行為だけではないけれでも)
割と普通なことだと思います。
ただ、理想と現実がある。
まずはアーレントがニーチェがいう、「一人になること」、「考えること」
これらの繰り返しが、自分と向き合う、または納得する第一歩ではないかと
思う。
これはけっして、ポジティブなことではないけれど、(想像を絶する、阿鼻叫喚の世界へと突き進むに違わないことであるから)
その道を私は突き進んでいくしかないと思っている。
憂鬱な世界へと自分を巻き込んでいく。